Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

祖父の渡日事情(1)ー土地調査事業

このブログの管理人は30年ほど前に韓国籍から日本国籍に変更した日本人である。

ただし、日本との縁を語るには1910年の日韓併合と1950年のKorea戦争を調べる必要がある。なんと縁の始まりだった祖父の渡日からすでに100年はたっている。

自分と同じようにKoreaにルーツがある人は多いが、どこか似ていてどこか違っていて自分で調べないと理解が難しいと思ってきた。その上、日本での育った地域環境、家庭環境、教育環境も違うとなれば、共感できる人を見出すのは無理だ。

自分のことは自分で表現したい。これが渡日事情を調べるきっかけだった。

 

父方の祖父と祖母は1900年あたりに韓国南部の山間の面(日本の村に相当)で生まれている。祖母はよそから嫁いできたのだが、似たような環境だったと思う。写真で見る限り辺鄙なところだ。

なぜ祖父が昭和初期(1920年代)宗主国であった日本に来たのかは、歴史に興味がある私にとっても、国東半島のいなか町で10代の青年になった父にとっても関心事になっていった。


ということで若い頃、国東半島まで何度か行き付近を徒歩で見学したり、地元の公立図書館をのぞいたり、大分県立図書館でも過去の新聞のマイクロフィルムを一枚一枚見たりしたものだった。

この図書館は地元出身の著名な建築家がデザインしたものでコンクリートの壁の吹き抜けが開放感があり、おしゃれな建築物だった記憶がある。

当時に比べたら自分の見識が増えてきたことは事実で、今同じことをすれば面白い旅になりそうだ。

「労働者の募集があって、じゃあ行ってみようかと思った」
という内容の祖父の語りを父から聞いている。
生活の破綻に後押しされて、多少の不安もあるが、このままでは生きていけないということだろうか。

この労働者の募集のために山間部まで来た手配師はKoreanのはず。多数の一世の男子が渡日する以前にこういう仕事をする人材がいたということになる。この手配師から労働条件や連絡船の乗り方やどこに行けばいいのかという情報をもらったのだろう。

明日への展望を持たせる内容だったので、渡日後「話しと違うやないか」「聞いていたのとは違う」という感情を持つ場合は少なくなかったと想像する。 
日韓併合初期の一世の男子の渡日事情はみな似ているが、この手配師を具体的に語る人は少なかったという印象がある。そのせいか、私はずっとこの手配師を日本人(本土出身者)とイメージしていた。

人を集めるには土地勘と巧みな言葉が必要だ。

現代もアジア諸国から移民難民出稼ぎのような形で日本に来るケースがある。彼らに祖国で最初に接触して話をするのは同国人だと思う。

さて、祖父は自分より少し若い一族の青年と、お互いの若い配偶者はそのまま故郷(慶尚南道陜川郡)に置いて出稼ぎに出ることにした。
祖父は植民地行政の一環として実施された土地調査事業によって、それまでのライフスタイルが維持できなくなっている一族の現実を複雑な思いで見ていた。

いわゆる多感な青年期の頃だった。

この祖父から話を聞き取りしたかったものだ。

 

朝鮮史を学び始めた最初の文献は『朝鮮史』(旗田巍著)だった。この著者は1908年の今の韓国の馬山市生まれの研究者と知って感慨深いものを感じる。

とにかくこの本で土地調査事業という言葉を知ったのだが、父からも関連していることを当時確認した。

この土地調査事情という言葉を最初に知ったときは奪われたということに重きを置いていた。今の見識ではそれだけではないと思う。併合された土地での税収入を期待するためにはまず調べないといけない。

いきなり近代的な税制がしかれることになり、慣れていない土地の人間にしてみれば感情的なしこりは残ったと思う。

ではそれまでのライフスタイルがいいものだったかといえば、3代目の私から見れば遅かれ早かれ変化を求められていた時代だったとも思える。

変化を求められた時期に異民族による行政が始まったと理解している。

 

祖母は1925年生まれになる父を妊娠していた。
祖父は土地を離れやすい次男だった。
父は解放後、日本の村役場に当たる故郷の面事務所で家の戸籍を初めて見て、自分の一つ上に兄がいて乳飲み子のまま亡くなっている事実を知った。この件は韓国にいる叔父も知っていた。

父は自分が生まれたため、乳を奪うことになり、離乳食と呼べるものが何もない時代、栄養失調か消化不良で亡くなったのだろうと推測していた。祖母は父を妊娠した時点で母乳は出なくなったはずだから、先に生まれた子の生きにくさはもっと早くに始まっていたことになる。

あの当時の儒教の影響が強いKorea半島の農村部で長男を亡くすということは、今よりももっと大きなダメージを夫婦に与えていただろうと想像する。

昔の女性の出産数には驚かされる。とくに祖母は健康で多産系の女性だった。祖母は8人生み、父を含めた7人の子を育てたが、父とすぐ下の弟との年齢差は6歳。その後は数年おきに生まれている。長男と次男の6年の年齢差は、夫婦がある期間別れて生活していたという事情を物語っている。

そして祖母は父以外の子を全て日本で出産している。

こういう記録をまとめるたびに、この事実に圧倒されてきた。