1924年あたりに祖父が出稼ぎ労働のために日本に行ってしまったあと、慶尚南道の故郷で祖母は父を出産している。
祖父からの仕送りや便りはあったのだろう。それをあてにしながら、祖母は自らも父を連れて祖父と合流する機会を待っていた。
そういう点で、日本本土と朝鮮半島は一日で船で渡れるぐらい近い距離だ。
父が語る自らの母の印象は「発展家」「進取の気性に富む人」だった。
祖母が一刻も早く故郷を出ようとしていた理由がもう一つあった。
祖父は次男であった。長男夫婦は自分たちの親の家にそのまま同居していた。
祖父は結婚後自分たちの「祖父の家」に同居することになった。
その家に妊娠している祖母を置いて出稼ぎに出ている。
しかし「祖父の家」は跡継ぎの子どものいない家、そして子を残そうと努力した家だった。
だから「祖父の家」には族譜に記載された二人の配偶者のうち、1943年まで生きた配偶者だけがいた。
後妻、第二夫人、妾? なんと表現すればいいのだろうか。とにかく、その女性と祖母と生まれたばかりの父が三人で同居していたことになる。誰が考えても窮屈な暮らしだ。たいていはうまくいかないものだが、なんとか数年ぐらいは続いたのだろう。
祖母は生活苦だけでなく、「祖父の家」での息苦しさをかかえていた。
祖父が故郷を出て数年たったころ、祖父からの便りに日本に来るようにと書かれた文面とお金と面(村)の警察で渡航証明がとれるための何らかの書類が同封されて届いた。
……日本政府は、朝鮮人労働者の流入による失業者の増大を恐れ、景気の変動によって自由渡航制と渡航規制とを繰り返した。そして、1925年10月からは渡航阻止制を実施した。「漫然渡航」は難しくなった。渡日できる者は、警察署発給の渡航証明書を用意したうえで、少なくとも渡航費のほかにいくばくかの生活費を所持しなければならなかった。また、就職確実であることが条件とされたために、実質的には日本に何らかの縁故を有する必要があった。そのため、渡日は全くの貧窮者や縁故なき者には不可能なことであった。それでも、渡航者は増え続けた。……
『植民地朝鮮と日本』(趙景達著)
祖母と父と祖父と同行した一族の青年の妻の3人は、渡航希望者で混雑する釜山港から関釜連絡船に乗った。父は二人の女性にかわるがわるに抱かれてきたような記憶がかすかにあるという。
それはいつかというところでは、韓国の親族は父が2歳というが、父は自分が3歳ぐらいという。
釜山港から出た関釜連絡船は下関港に到着したのだが、祖母たちがそこから自由に動けたとは思えない。
下関港で待つ祖父たちと合流して、その後夫婦として行動を共にしたのだろう。まずは日本国内で唯一土地勘があった今治市に落ち着いたと想像している。
初期の一世の渡日背景は、土地調査事業などの植民地行政を遠因とする故郷での生活破綻ということでみな似ているが、それとは別に、個々の家の事情も渡日へと促したというふうに私には見える。