父は戦中末期の2年間ほどを、日本統治下のKoreaで過ごした珍しい人だった。
ちょうどその頃作家森崎和江も、Korea半島で生まれて進学するために戦争末期に九州に戻った人であることがわかって、とても興味を持った。
お父さんは地元のKoreanのための中学校の先生で、生徒から慕われていたみたいだ。
外地で働くと6割増しの外地手当が支給されて、当時お父さんには余分なお金を必要とする事情があったので、korea半島に赴任したことが著書の中で書かれていた。
戦後森崎和江は炭鉱の町に住み込んで作家活動をやっていて、主に女性史に関心をもち、からゆきさんの本も出版されている。
多感な少女時代を過ごした日本統治下のKoreaについて、回想録『慶州は母の呼び声』を書き残してくれている。
この回想録は他に例がないぐらいあの時代の貴重な記録だと思う。
印象に残っていることを書いてみる。
・いろんな地域からきた植民者の日本人家庭では、方言ではなくて教科書で習う標準語を話すことが推奨されたこと。
・Koreanの生徒は学校で Korea語と日本語を学ぶのだが、日本人と変わらないぐらいの日本語力を身につけてバイリンガルになっていたこと。
・早婚の風習があり、同級生ではすでに結婚している子も何人がいたこと。
・少年たちは兵隊になることに憧れがあったこと。
・korea半島にはロシア人や中国人も住んでいたこと。
・多分日中戦争が始まってからだと思うが、中国の人を蔑む蔑称が広まっていて、「チャンコロ」「チャンチャン坊主」などと囃し立てる歌も子供たちが歌っていたこと。
当時の様子を知りたい人には全く無駄がないほど、一行一行が参考になる。
父が落ち着いた晩年を過ごしていたら、読ませてやりたかった本だ。
父は仕事で山深い農家を一軒一軒まわって農業指導をするのだが、米の供出がきついので農家は飢えていた。
父の出身県はさつまいもの名産地だったので、苗を内地から送ってもらい、「飢えをしのいでくれる」と言いながら農家に植え方を指導したこともあるらしい。
上司からも父の責任でやりたいようにやっていいと言われていた。
ただし、残念ながらさほどの効果はなかったと語っていた。
私もさつまいもを畑で育てていたことがあるのでよくわかる。比較的育てやすかったし、保存もきくので重宝していた。
自分で育てるとストローぐらいの太さの茎も山ほど収穫できるので、茎も多少きんぴら風に調理することもあったが、多すぎてほとんど捨てていた。
ところが韓国では、茎を干して、切り干し大根のように保存していることを知って、厳しい時代を生き抜いた庶民の知恵だなと感心したことがある。
あと、父は麻の他にナツメヤシなども供出させていて、規定の量を超えることは絶対ないようにきちんと測っていたらしい。末端の技術者がやれるのはこの程度だろう。
ただ、米を扱っていなかったので、農民から恨まれることはなかったという。
解放後も親日派と呼ばれるこの仕事に関して身の危険を感じることはなかったが、北朝鮮であれば過去を問われたかもしれないと振り返っていた。