Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

祖父の渡日事情(8)ー協和会

祖父は1925年ぐらいから1945年の20年間日本にいた。

20代から40代の働き盛りで、家の中では子どもも次から次へと生まれて学齢期に達し始めていた頃だった。

すでに出来上がっていた同胞のコミュニティーに入ってきたのではなく、常にパイオニア的存在だった。異国でよく頑張ったなというのが率直な感想。

 

祖父のこの時代のことを語るとき、協和会という団体について触れないわけにはいかない。
協和会というのは、戦前戦中に日本在住のKorea半島出身者を対象に組織されていた官製の団体なので、当然戦後の在日の団体や研究者からの評価はいいものではないという印象を持ってきた。わかっている人の前でとても口にできない感じ。

むしろ同胞を抑圧するもの、または民族性を抹消することに積極的に加担したと捉える人もいたし、在野の研究者による文献も見たことがあるし、少し文章も読んだことがある。

国策としてのアジアへの領土拡張、戦争協力を担える人材の育成、国内の治安維持を目的とした組織と捉えている。


祖父は大分県の国東半島に1930年代から定住していた。
そのため、住んでいた地域の協和会支部の1940年代の発足時から役員をさせられてきた。
戦前の日本人がみななんらかの戦争協力にすすんでいった時代、祖父もKorea半島出身者の立場で戦争協力に巻き込まれていったと表現するのが妥当かと思う。

祖母は、父の通知表卒業証書などと一緒に祖父の協和会関連の記念写真も何枚か帰国後も保管していた。

ある時期から私が手元に保管していたのだがもう処分してしまった。

警察関係の上の方の人たちと神社などで記念撮影されたものも数枚あった。

 

若い頃「協和会」ということばは知っていたけれど、祖父も実際にかかわっていたことを知ったのはその写真を見たときだった。

父も当然知っていた。

祖父は内地で協和会の役員までやっていたのに、解放後の祖国で生涯を終えていることになる。とても珍しいケースだと思う。

もし日本に残っていたなら、今の私の若干寂しいけれど自由な暮らしはなかったと思えるので、個人的には祖父が帰国の意思を持ったことはよかったと思っている。いろいろな意味でしみじみよかったと胸を撫で下ろす感じ。

 

1992年発行の自費出版『私の見て来た大分県朝鮮民族五十年史』の興味があるページを読んだことがある。
著者は1921年Korea半島で生まれ、1943年徴用で熊本県尾三井鉱業で産業報国隊として働き、戦後大分県に住むようになった人だった。

太平洋戦争真っ最中で、40代までの健康な日本人男子ならとっくに戦地に行っていた。

国内の炭鉱や鉱山で働く人材をKorea半島から連れてきたというわけ。こういう人には「強制連行」という言葉で渡日を語れる。

日本にそのまま残る権利はあったと思うが、珍しいケースだと思う。

 

北朝鮮を支持する立場をとっており、著書にもはっきりと思想的立場が反映されていたが、戦前については当時の大分合同新聞記事を中心にまとめてあり、私のように戦前の状況を知りたいと思っていたものにはとても貴重な資料になった。

で、この本の戦前編では、なんと4分の1ページも使って協和会についてまとめられていた。

この団体が「皇民化政策」の実行組織として、Korea半島出身者に少なからぬ影響を及ぼしていたことが詳しく書かれていた。

生活習慣などの講習会の開催や神棚設置や婦人の和服着用のススメとか。

「仕方なしにやっていた」というぐらいで、父も積極的に語ることはなかった。
祖父は選挙権もあったので、票の取りまとめも依頼されるような立場だったようだ。

 

で、この時代、祖母がどんな服装をしていたのか興味があった。農村なので、周囲の女たちは和服とかモンペの類だと想像される。当時近くに住んでいたという遠縁の人と会うことができ、いろいろな世間話をする機会を持つことができた。

最後に服装のことも聞いてみたら、面白いことをきくねと言わんばかりの顔で、はっきり着物だと答えてくれた。何枚か持っていて「まるで日本人みたいや」とからかった記憶があるらしい。

この事実は意外だった。

協和会の「和服着用のススメ」に応じたものであるが、そうでないと着るものも満足に手に入らなかったと思う。

このあたりの記憶が戦後もずっと民族主義者の界隈で引きずられたのかなと思う。

 

それと私の育った家では神棚があった。似たような境遇の家庭ではどうなんだろうか。この件に関して調べたことはない。ある方が珍しい?

都会では神棚がある家はとっくにないし、地方でも若い人の家ではないだろう。

地方都市にある婚家では仏壇と神棚もあり、両方を同じ部屋におくことは嫌われていて別々の部屋に飾ると聞いた。

神棚は台所の近くの天井に近いところに飾られていて、それを見た時なつかしいものを見た気分になったものである。

婚家では神様と仏様が共存している。これって普通ですかね?

いずれにせよ神棚を設置する習慣はもう廃れてきているのではないか。

前述の本では、日本の古来の神道とKorea半島の土着の信仰は似ていて、著者はさほどストレスがなかったというようなことが書かれていた。意外な事実だったので覚えている。もちろん国家神道は別でしょう。

 

この記事を書いているのは終戦記念日

物事にはなんでも両面がある。協和会が組織されていたことはKorea半島出身者が帰国する際、いい働きをしたことは祖父の経験で語れる。

それはまた別の記事で。