Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

「きけ、わだつみの声」 ビルマ慕情(21)

 次の日の3階のホールで行われる映画「日本戰歿学生の手記 きけ、わだつみの声」上映会にも誠一郎は来た。

 上映時間まで時間を潰すために、やはり1階のロビーで「ミャンマーの今」写真展を見てすごしていた。上映時間になったのでホールへ上がっていくと、すでに深雪が上映前に映画の説明を参加者にしていた。

 映画「日本戰歿学生の手記 きけ、わだつみの声」は東横映画(東映の前身の1社)が1950年に制作した、関川秀雄監督による日本映画である。イギリス領インド北東部の町インパールを目指したインパール作戦の部隊の学徒兵の敗走と回想シーンで構成される。

 戦後初の戦争映画で、戦場の最前線での将兵たちの姿を映像として映し出した初めての日本映画と言われ、日本初の「反戦映画」とも言われている。

 1947年に東京大学協同組合出版部の編集によって東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』が出版されると、後の東映社長・岡田茂が映画化を決意しプロデュースした。 

 1949年に手記集の続編が『きけ わだつみのこえ 日本戰歿学生の手記』という題名で出版されたので、映画の題名も合わせることになった。わだつみとは日本神話の海の神のことである。

 まだその頃はGHQ連合国軍最高司令官総司令部、通称進駐軍)占領下の時代だったので、映画は国民に大きな影響力があると判断され、台本の段階から厳しい内容のチェックがなされた。また撮影も全て国内で行われたという。まだ生生しい戦争体験をもつ復員兵も多いころに制作されたもので、1950年制作のこの映画が、ビルマでの戦争の実相を一番伝えているといわれてきた。

「古い映画なので画質や音質の悪いところがあるかもしれませんが、とても貴重な映画で、他所ではなかなか見ることができないものになってます」

 と、深雪がしめくくって上映が始まった。

 

 異国のビルマで土砂降りの雨の中、泥沼に横たわる兵士たちの姿。なぜこんなところまで来て戦争をしているのかと問うエリートたち。ほんの半年前までフランス文学を学ぶような学生もいたことに誠一郎は驚いた。

 

 上映が終わった。

 この映画は重たかった。しばらく観客は立ち上がれないようだ。

 もう夕方になっていた。夏の日差しはいくぶん和らいでいた。

 

 誠一郎は会場で後片付けに追われている深雪の後ろ姿に、

「山崎さん、見かけませんね」

 と声をかけると、

「え?……」とふりかえって答える深雪に

「そういえば、きのうもいなかったな」

「ちょっと体調をくずしてしまって……きのうの夜家に電話したらおばからいけそうにないといわれて……血圧が高いんですよ。とくに真夏に出歩くのはねー」

 深雪が片付けの手を止めて答えた。

「……そうなんですか」

 深雪は映写機やスクリーンを片付け始めていた。

 誠一郎は深雪をしばらく眺めていたが、

「もう仕事おわるんでしょ?」

「ええ、今日はもうこれで終わりです」

 誠一郎は何気ない風をよそおって「ちょっとお茶でもどうかな? ……山崎さんのこともききたいし」ときいた。

「あ、そうですね」

 深雪は手を休めず気軽に即答した。

 誠一郎は胸の中に吐き出したいものをかかえていた。

講演後の二人 ビルマ慕情(20)

 講演が終わるや否や、誠一郎は、入り口あたりにあるスタンド灰皿のそばにいき、ずっと我慢していた煙草を吸い始めた。

 深雪は参加者のざわつきの中で会場の後片付けに追われていた。その深雪に斉藤が静かに近づいてきて「いいフェスティバルだね」と切り出し雑談を始めた。

「こういう企画は当日蓋を開けてみないとわからないとこがあるので、参加者が少なかったらどうしよかなんで心配だったんですが、良かったわ、たくさん来てもらえて」

 と手を休めて斉藤の雑談に応じていたが、実は斉藤の視線は深雪自身の肩越しを超えていることに気がついた。

 深雪が気になってその視線の方に振り返ると、誠一郎が入り口近くで煙草をくゆらせている。昨日の温和な雰囲気とは違って、いらだちを抑えるかのようにせわしく右手を動かして煙草をすっていた。

 斉藤は誠一郎の方をじっと見つめていて、何か考えごとをしているかのようだった。斉藤の顔は講演中の穏やかさは消えていた。

 誠一郎は、深雪と斉藤の方に鋭い視線を送り背中を向けた。背中はまわりの人を拒否しているかのようだった。会場はがやがやしていたが、斉藤と誠一郎との間には緊張感がはりつめていて、その間に立つ深雪にもひしひし伝わってくるものがあった。ただ深雪にはその理由がわからない。

 深雪は落ち着かない気持ちを胸に、心ここにあらずという顔の斉藤と雑談を続けていた。ふともう一度振り返ると、誠一郎の姿は消えていた。

「ちょっと、ごめんなさい」

 と深雪は斉藤に声をかけて、急いで入り口を出て階段に向かった。

 深雪は、帰りを急ぐ参加者に混じる誠一郎の姿を踊り場に見つけた。

「あの……」

 と深雪は見下ろして誠一郎の後ろ姿に声をかけると、誠一郎は気がついた。

「明日、3時から映画上映があるんですよ。ご存知ですか?」

 誠一郎は何度もうなづいて、深雪に一瞬右手を挙げて、そのまま階段を降りて帰って行った。

 ひとまず安心して、深雪は斉藤のところに戻った。

「さっき煙草を吸っていた人は、澤村さんのお知り合いですか?」

 息を整えていた深雪に斉藤がきいた。

「いえ……違います……」

 斉藤は口をかたく閉じてうなづきながら、テーブルに戻り資料をカバンに戻して帰る準備を始めた。

「今日はほんとにありがとうございました」

 深雪は斉藤を建物の入り口で見送ったが、その後ろ姿は寂しげなものに映った。

 

 誠一郎は、帰りの電車の中で空いた席を見つけるとすわりこんで目を閉じた。運という言葉と「連れて帰ってくれ」という老兵の戦友の叫びが頭の中でこだましていた。

戦友を想う語り ビルマ慕情(19)

 斉藤の講演に続いて、質疑応答に入った。

「あまり時間はないんですが、質問、意見、感想などありましたら、遠慮なく発言してください」

 と深雪が言い終わるや否や、ある年配の男性が、自分の所属部隊を語り、あのインパール作戦を生き抜いてきた斉藤に共感するといった。そして同じビルマにいたという親近感から、にこやかに具体的にある隊長の名前を出して、ご存じかと確かめ合うシーンもあった。

 さらに深雪が参加者の発言を促すと、学生らしい若い男性がおずおずと手を挙げた。

インパール作戦ってはじめて知りました。今まで聞いたこともないので、パネル展や講演はとっても参考になりました……実は僕の親戚のおじさんが、戦中ビルマにいってたことを最近母親から聞いて、それで興味があって今日ここに来ました。それで、おじさんにビルマでのことを聞いてみたんです、ちょっとお酒に酔って機嫌も良かったんですが、急にしらふになって「ビルマのことは聞くな」って言われて……びっくりして、そんなことがあって、お話しを聞いてて納得できました」

 聴いている人たちは神妙な面持ちでうなづいていた。

 次に手を挙げる人がなかなか出てこないので、

「もうお一方ぐらいは発言できますが」

 と深雪が参加者をみわたすと、やはり斉藤と同年配の男性が意を決して静かに手を挙げた。

「吹田からまいりました佐藤と申します。」

 佐藤は斉藤にまるで上官に挨拶するかのように律儀に頭を下げ、まわりの聴衆をみまわして発言を続けた。

「私も徴兵されてインパール作戦に歩兵として参加しました。斉藤さんのように九死に一生を経て復員しました。戦後は焼け野原になった日本で必死に働いてきました。ビルマで亡くなった戦友の分まで……そんな気持ちで働いてきたつもりです。だからビルマで亡くなった戦友たちが、無駄な死だったのではないかといわれるのが、一番つらいんです」

 男性は高ぶる感情で言葉が続かない。涙を必死でこらえている。

「撤退のときが悲惨だった。なんとか川まで、川といっても増水していて幅が1000mぐらいはあるんですよ。いや、もっとあったかも。自力で渡れないものは……」

 男性は言葉が続かない。

「お互い食べるものがない中、戦友は怪我をしていて……川をわたることができなかった」

男性の唇がふるえていた。聴衆は静まり返っていた。

「なんもできんかった」

 誠一郎は顔を下に向けて次の言葉を待っていた。

「いっしょに連れて帰ってくれと何度も必死に叫んでいたのが耳に残っていて……なんもできんかった」

 佐藤は言葉をしぼりだしていた。

「たぶんあれが最期だったと思う。おれの分まで生きてくれと言われたような気がして……そう思うようにして今まで生きてきたように思う」

「だから……終戦の日がくると、戦友たちがかわいそうで……」

 ここまで語り終えるとその老人は席にすわって、ハンカチで目をぬぐった。

 あと発言を求める人はいなかった。

 講演は質疑応答も含めて全て終わった。

学徒出陣 ビルマ慕情(18)

 誠一郎は戦争のパネル展を見ている途中で、講演会が始まる時間になってきたので隣室の会議室に入った。50人ほどがすでにパイプ椅子に座っていたので、誠一郎は一番後ろの端の席にすわった。はぼ席は満員状態。

 企画マネージャーの澤村深雪が、講演者の斉藤信夫を後方の入り口から正面の長テーブルに案内した。斉藤は穏やかな表情を作っていた。

 山崎と同じぐらいの年配の男性が2,3人いた。あとは夏休みに入っていたので学生をふくめた若い人たちと年配の女性たちがほとんどだった。

 

 深雪が講演参加者に簡単な略歴を紹介した。

 斉藤信夫は大学に籍を置いたまま休学し、当時のビルマの前線に参加した人だった。

 1937年(昭和12)以来、日中戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や戦局の悪化で戦死者数が増加したため、兵力不足が顕著になっていた。

 そのため兵役法などで旧制の大学・高等学校・専門学校などの学生は26歳まで徴兵が猶予されていたが、年を経るごとにその対象は狭くなってきた。

 第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18)、兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた。これがいわゆる学徒出陣と呼ばれるものである。

 1943年10月1日、当時の東條内閣は「在学徴集延期臨時特例」を出して、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴集延期措置を撤廃した。同年10月と11月に徴兵検査が実施され、丙種合格者までを12月に入隊させることになった。

 東京の明治神宮外苑競技場では同年10月21日に東條英機首相たちの出席のもと出陣学徒壮行会が行われ、続いて各地方都市でも開催された。

 学徒出陣によって入隊することになった学生の多くは高学歴者であるという理由で、陸軍では、幹部候補生として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足に当てられたという。

 

 講演は始まった。

「ただいま紹介にあずかった斉藤です」

 まず斉藤は深雪が紹介していない詳しい経歴を語り、インパール作戦での所蔵部隊を説明した。そしてインパール作戦の悲惨な状況を簡単に説明した。

 斉藤がいた部隊はほとんど死に絶え、イギリス軍と応戦したときには、自分のすぐそばにいた兵士に弾があたり即死するとい体験も生々しく語った。これに近い体験は何度かあったという。

 そして自分が戦死することなく無事に日本に帰ってこれたのは、暗い顔をして運がよかったからだといった。運といういう言葉でしか説明ができないと、言葉を一つ一つ丁寧に選びながら言った。

 誠一郎は、目立たないように下を向いて、運ということばに耐えて聞いていた。「運」という言葉は受け入れられない心境だった。

 斉藤の話はさらにつづく。

 そして学生時代から剣道で身体を鍛えていて、体力は人より少しあったと説明した。つまり運と体力のおかげだったという。

 最後に、これからは、中国との関係改善なくして、アジアの平和を作り出せないとしめくくった。 

悲劇の白骨街道 ビルマ慕情(17)

 1944年(昭和19)1月インパール作戦が正式に発令された。第十五軍傘下の三個師団はそれぞれ準備に入った。

 アラカン山系の一番険しい北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動車道路の開設と物資の集積に懸命だった。自動車に頼れないところは牛を使って運ぶ予定だったので、5000頭の牛の訓練にも力を入れた。しかし、インパール作戦ではイラワジ河の支流であるチンドウィン河を渡河しなければならない。半数以上の牛はここで溺れ死んだという。

 各師団は、三週間分の食糧・弾薬を携行して、いっきにインパールを攻略するという計画だった。

 この物資の補給に関して計算上は無理だと意見を表明した人もいたが、左遷人事で現場から外され、そうなると周囲で当然口をつぐむ人も出てきたことは戦後わかってきた。

 一番激しい行軍が予想された第31師団の佐藤幸徳師団長は、作戦が頓挫し、途中で食糧・弾薬が尽きることを恐れていた。

 1921年(大正10)に陸大を卒業後、部隊勤務経験が長く、豪放磊落な性格で、上官にもずけずけものをいうタイプの軍人だったという。

 インパール作戦の後半事件を起こし、上官である牟田口廉也司令官にあわやというようなシーンも起こしかねないような怒りを向けるということにもなった。

 

 1944年(昭和19)3月8日、まずいちばん南の第33師団が敵の注意を惹きつけるためにチンドウィン河を渡って作戦を開始した。一週間後に第15、31師団がそれぞれのコースからチンドウィン河を渡った。

 第31師団は苦しい行軍を続けて、なんとか4月5日にインパールの北方の要衝コヒマに到達した。途中、敵と激しい戦闘を交えて、多数の死傷者を出しながらも、目標地点まで目標の日数でたどり着いた。

 しかし持っていた食糧はほとんど食べ尽くしていた。その上イギリス軍はコヒマ方面に兵力を増強し、反撃に転じた。制空権を握っていた連合軍は空から豊かな物資の補給が保障されていた。

 日本軍はインパール平原にまで到達しながら、連合軍の抵抗にあって身動きが取れない状態が続いていたという。この地域はまるでバケツをひっくり返したような土砂降りとか、ホースからふき出るようなような雨粒が降ると形容されるような独特の気候だった。この泥沼の中で、多くの兵士は栄養失調になり、次々に疫病におかされ、マラリアアメーバ赤痢デング熱にかかって倒れるものが続出した。

 第31師団の佐藤幸徳師団長は何度も補給を要求する電報を打つが、司令部からは補給は届かなかった。この何度かの司令部とのやり取りに佐藤幸徳師団長の怒りは爆発した。

 6月1日朝、佐藤師団長は独断命令を下達し、第31師団をコヒマから撤退させた。師団長が独断撤退する事態は、日本陸軍始まって以来のことだった。

 敗走する日本兵はより悲惨な状況に追い込まれ、白骨街道の悲劇はここから始まった。

 第31師団の撤退によって、第15、33の二つの師団も不利な戦いを強いられたことも事実だった。

 作戦中止命令が出されたが、3個師団の敗走が始まると、兵士たちは疲弊しきっていて、チンドウィン河にたどり着くまでに次々に倒れていった。インパールからビルマにかけての山々、谷、そして街道にはおびただしい日本兵の死体が横たわった。

 

 現在もまだビルマに眠る遺骨はあると言われている。

インパール作戦前夜  ビルマ慕情(16)

 続いて誠一郎は、インパール作戦についての写真と解説を目で追い始めた。

 1944年3月開始時点での日本軍の参加部隊指揮者は以下のようになる。

 ビルマ方面軍司令官 川邊正三中将

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 第十五軍司令官 牟田口廉也中将 ーーーー第十五師団師団長  山内正文中将 

                     第三十一師団師団長 佐藤幸徳中将

                     第三十三師団師団長 柳田元三中将

 このうちインパール作戦のキーパースンは牟田口廉也である。1988年(明治21年佐賀県生まれの牟田口廉也中将は、陸軍士官学校22期生で、大正6年陸軍大学校を卒業後、順調に軍人として出世の道を歩んでいた。

 そして昭和12年7月に起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件の時には支那駐屯軍歩兵第一連隊の連隊長として現場にいて、戦闘命令を下した人でもあった。この事件によって日中戦争は本格化した。

 この頃から牟田口廉也の名前は、激しい気性と強気の作戦指導の指揮官として知られるようになった。

 かつての日本軍は陸軍大学校の卒業生がほとんどであり超エリートだった。インパール作戦の指揮者たちもみな陸大の卒業生であり、先輩後輩のタテ社会で自由に意見は表明しにくい雰囲気があったという。

 さらにビルマ方面軍司令官川邊正三中将は、陸軍で枢要な地位についた東條英機とは陸大の同期生だった。お互い陸大卒業にあたっては、成績優秀者だけに授けられる恩賜の軍刀をもらっている間柄だった。さらに盧溝橋事件の際には牟田口第一連隊長の直属の上司という関係にあった。

 インパール作戦の水面下では、情実が絡みやすい環境にあったというのも事実だった。

 

 一方、連合軍の思惑はどのようなものだったのだろうか。

 1943年(昭和18)1月、アメリカ、イギリスを中心とする連合軍は北アフリカのモロッコカサブランカで合同参謀会議を開いている。アメリカは中国の蒋介石を支援するための補給路である援蒋ルートにこだわっていた。イギリスは大英帝国の威信にかけて何としても植民地を奪回したいと考えていた。両者の思惑はこの会議で一致し、連合軍のビルマ奪回作戦が決定された。

 この連合軍の動きを察知した日本軍は、ビルマにおける防衛体制の強化を迫られ、昭和18年3月27日ビルマ方面軍が首都ラングーンに新設された。

 

 さらに当時日本軍はインドへの侵攻で戦況を好転させたいという意向を持っていた。

 昭和18年2月、アメリカ軍はガダルカナル島を攻略して、太平洋方面で攻勢に転じていた。5月にはアッツ島、8月にはキスカ島を奪回し、11月以降には中部太平洋のマキン、タラワを占領した。こうして太平洋上でのアメリカ軍の反攻作戦は、日本の資源輸送をおびやかし、日本国内の工業生産力は低下していった。

 

 こういう戦局を打開したいという思惑が日本軍にあった。 

ビルマでの戦い ビルマ慕情(15)

 ミャンマービルマ)フェスティバル5日目。

 誠一郎は深雪に言われたように講演会の時間より早めに来て、別室の戦争パネル展を見ることにした。カラー写真の「ミャンマーは今」展と打って変わって、戦中のビルマでの日本軍の様子が中心となった白黒写真だった。

 折しも8月に入り、終戦記念日が近づいていた。新聞、テレビは特集を組むシーズンに入り、時期的にとてもマッチした企画だった。企画マネージャーの深雪が特に力を入れていた展示である。

 

<【ビルマでの戦い】

 1941年12月8日に始まった太平洋戦争における東南アジアでの戦いの一つで、イギリス領ビルマやイギリス領インドをめぐる戦闘である。

 この戦いでは枢軸国(ドイツ・イタリア・日本など)と連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など)の軍隊のほか、当時植民地であったビルマ、インドなどの独立運動も大きく関わっている。

 そのためイギリスからの独立を目指すビルマ国民軍やインド国民軍は日本軍やタイ王国軍を中心とする枢軸軍に味方し、日本による統治をよしとしないビルマの抗日運動はイギリス軍や中国軍、アメリカ軍を中心とする連合軍に味方した。

 また、インドではイギリスの植民地軍である英印軍としてイギリス側で参戦した兵士たちも多かった。この戦いは、1945年の終戦直前まで続いた>

 

 日本軍は太平洋戦争が始まった直後にマレー半島に上陸し、南下してシンガポールを攻略した。さらに西に進み、タイを制圧。1942年1月そのままの勢いで、イギリス領ビルマへ進入したのである。3月には、首都ラングーンを占領し、5月にはビルマ全土を掌握した。

 

 ビルマのイギリス軍守備隊は、まったく戦意を失っていて、日本軍の進撃の前に、ほとんど戦いもせず武器や物資を放り出して撤退してしまった。逃げ込んだのが、インド東部の連合軍の拠点インパールであった。

 

 日本が掲げた戦争目的の一つは、「大東亜共栄圏」の建設だった。

 「大東亜共栄圏」とは戦中の日本の対アジア政策構想であった。欧米列強の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して日本を盟主とする共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張である。その西南の端がビルマであった。この段階で日本軍は、泥沼の戦いになっていた中国戦線を除けば、大東亜共栄圏として目指す地域をほぼ手中にしていた。

 1944年3月に始まったインパール作戦は、日本軍がかつてのビルマから国境を越えて、インド東部にある連合軍の拠点インパールを攻めた戦いであった。国境地帯で4か月にわたって激しい戦闘が広げられ。結局、日本軍は3万人近い死者を出して敗退した。

 このインパール作戦の発端になる作戦構想は、ビルマを制圧した1942年5月ごろにはもちあがっていた。