誠一郎は深雪に言われたように講演会の時間より早めに来て、別室の戦争パネル展を見ることにした。カラー写真の「ミャンマーは今」展と打って変わって、戦中のビルマでの日本軍の様子が中心となった白黒写真だった。
折しも8月に入り、終戦記念日が近づいていた。新聞、テレビは特集を組むシーズンに入り、時期的にとてもマッチした企画だった。企画マネージャーの深雪が特に力を入れていた展示である。
<【ビルマでの戦い】
1941年12月8日に始まった太平洋戦争における東南アジアでの戦いの一つで、イギリス領ビルマやイギリス領インドをめぐる戦闘である。
この戦いでは枢軸国(ドイツ・イタリア・日本など)と連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など)の軍隊のほか、当時植民地であったビルマ、インドなどの独立運動も大きく関わっている。
そのためイギリスからの独立を目指すビルマ国民軍やインド国民軍は日本軍やタイ王国軍を中心とする枢軸軍に味方し、日本による統治をよしとしないビルマの抗日運動はイギリス軍や中国軍、アメリカ軍を中心とする連合軍に味方した。
また、インドではイギリスの植民地軍である英印軍としてイギリス側で参戦した兵士たちも多かった。この戦いは、1945年の終戦直前まで続いた>
日本軍は太平洋戦争が始まった直後にマレー半島に上陸し、南下してシンガポールを攻略した。さらに西に進み、タイを制圧。1942年1月そのままの勢いで、イギリス領ビルマへ進入したのである。3月には、首都ラングーンを占領し、5月にはビルマ全土を掌握した。
ビルマのイギリス軍守備隊は、まったく戦意を失っていて、日本軍の進撃の前に、ほとんど戦いもせず武器や物資を放り出して撤退してしまった。逃げ込んだのが、インド東部の連合軍の拠点インパールであった。
日本が掲げた戦争目的の一つは、「大東亜共栄圏」の建設だった。
「大東亜共栄圏」とは戦中の日本の対アジア政策構想であった。欧米列強の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して日本を盟主とする共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張である。その西南の端がビルマであった。この段階で日本軍は、泥沼の戦いになっていた中国戦線を除けば、大東亜共栄圏として目指す地域をほぼ手中にしていた。
1944年3月に始まったインパール作戦は、日本軍がかつてのビルマから国境を越えて、インド東部にある連合軍の拠点インパールを攻めた戦いであった。国境地帯で4か月にわたって激しい戦闘が広げられ。結局、日本軍は3万人近い死者を出して敗退した。