講演が終わるや否や、誠一郎は、入り口あたりにあるスタンド灰皿のそばにいき、ずっと我慢していた煙草を吸い始めた。
深雪は参加者のざわつきの中で会場の後片付けに追われていた。その深雪に斉藤が静かに近づいてきて「いいフェスティバルだね」と切り出し雑談を始めた。
「こういう企画は当日蓋を開けてみないとわからないとこがあるので、参加者が少なかったらどうしよかなんで心配だったんですが、良かったわ、たくさん来てもらえて」
と手を休めて斉藤の雑談に応じていたが、実は斉藤の視線は深雪自身の肩越しを超えていることに気がついた。
深雪が気になってその視線の方に振り返ると、誠一郎が入り口近くで煙草をくゆらせている。昨日の温和な雰囲気とは違って、いらだちを抑えるかのようにせわしく右手を動かして煙草をすっていた。
斉藤は誠一郎の方をじっと見つめていて、何か考えごとをしているかのようだった。斉藤の顔は講演中の穏やかさは消えていた。
誠一郎は、深雪と斉藤の方に鋭い視線を送り背中を向けた。背中はまわりの人を拒否しているかのようだった。会場はがやがやしていたが、斉藤と誠一郎との間には緊張感がはりつめていて、その間に立つ深雪にもひしひし伝わってくるものがあった。ただ深雪にはその理由がわからない。
深雪は落ち着かない気持ちを胸に、心ここにあらずという顔の斉藤と雑談を続けていた。ふともう一度振り返ると、誠一郎の姿は消えていた。
「ちょっと、ごめんなさい」
と深雪は斉藤に声をかけて、急いで入り口を出て階段に向かった。
深雪は、帰りを急ぐ参加者に混じる誠一郎の姿を踊り場に見つけた。
「あの……」
と深雪は見下ろして誠一郎の後ろ姿に声をかけると、誠一郎は気がついた。
「明日、3時から映画上映があるんですよ。ご存知ですか?」
誠一郎は何度もうなづいて、深雪に一瞬右手を挙げて、そのまま階段を降りて帰って行った。
ひとまず安心して、深雪は斉藤のところに戻った。
「さっき煙草を吸っていた人は、澤村さんのお知り合いですか?」
息を整えていた深雪に斉藤がきいた。
「いえ……違います……」
斉藤は口をかたく閉じてうなづきながら、テーブルに戻り資料をカバンに戻して帰る準備を始めた。
「今日はほんとにありがとうございました」
深雪は斉藤を建物の入り口で見送ったが、その後ろ姿は寂しげなものに映った。
誠一郎は、帰りの電車の中で空いた席を見つけるとすわりこんで目を閉じた。運という言葉と「連れて帰ってくれ」という老兵の戦友の叫びが頭の中でこだましていた。