「毎日フェスティバルに来られていたじゃないですか……会社勤めの方とは思わなかったわ。最初はメディア関係の方だと思ったけど、そうでもない感じで、どういう人かなと思ってたんですよ。とにかく時間がおありなそうなので余裕のある方にはみえたわ」
深雪は、お茶目な顔をして誠一郎の顔をのぞくように笑いながら言った。
今度は誠一郎が顔をくずして笑っていた。
「今は、どれでもないな」
誠一郎の意味深な答えに深雪は首をかしげていた。
「失業中なんだ……」
誠一郎はぽつりと答えた。
深雪はビールを一口ごくりと飲んだ。
「これでも誰でも知ってる会社にいたからね」
誠一郎は深雪を安心させようとした。
「バブルがはじけて雇用が不安定な時代に入ったってよく言われますよね。大学生なんか苦労してるし、知り合いの女子大生なんて気の毒なくらいお先真っ暗。就職先がないのよね。中にいる人も厳しいものがあるんですね」
深雪はグラスを見つめてつぶやいた。
「名刺がなくなって、肩書のない名前だけは残ったな」
誠一郎はしみじみ自分の置かれた立場を感じ入っていた。
「誠一郎っていい名前じゃないですか」
名前を褒められるのは初めてで、悪い気はしない。
誠一郎は目を細める。考えてみれば父親が残してくれた唯一のものだ。今まで気が付かなかったことが不思議だ。
「君の澤村深雪っていうのもいい名前だよ」
こんなたわいもない会話で居酒屋で時間が流れていく。
「ご家族は?」
深雪がさりげなく聞くので、誠一郎は娘と息子がいるとさらっと答えた。
「きょう見た映画で思ったね。今の俺は敗残兵だって。今のおれにぴったりの言葉や。会社をやめるまでは世間から企業戦士なんていわれてきたけど、やめてしまったらただの敗残兵や」
深雪は考えていた。
「でも、人生の敗残兵ではないわ」
「神様みたいなこというな……」
誠一郎は深雪の顔をはっきり見て笑っていた。
しばらくお互い食べていた。
「父親に会ってみたかったね」
誠一郎は深雪の前で心にまとうものをすべて脱いだ感じがした。負け犬のセリフだと誠一郎は思った。
父親に会いたいなんて生まれてはじめて口にしたように思う。亡くなった母親の前ではけっしていえないセリフだった。というか母と子の間で相手に気遣い、微妙に避けていたように思う。
深雪は返す言葉が見つけられない。
誠一郎は腕時計を見て「そろそろ帰ろう」といった。
二人は会計に向かう。
「自分の分は自分ではらいます」
といって、深雪は誠一郎が持つ伝票を覗き込みながら自分の財布をのぞく。
「まだそこまで落ちぶれてないよ」
といって深雪の手元からさっと千円札1枚だけとった。
「千円だけもらっとく」