Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

インパール作戦前夜  ビルマ慕情(16)

 続いて誠一郎は、インパール作戦についての写真と解説を目で追い始めた。

 1944年3月開始時点での日本軍の参加部隊指揮者は以下のようになる。

 ビルマ方面軍司令官 川邊正三中将

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 第十五軍司令官 牟田口廉也中将 ーーーー第十五師団師団長  山内正文中将 

                     第三十一師団師団長 佐藤幸徳中将

                     第三十三師団師団長 柳田元三中将

 このうちインパール作戦のキーパースンは牟田口廉也である。1988年(明治21年佐賀県生まれの牟田口廉也中将は、陸軍士官学校22期生で、大正6年陸軍大学校を卒業後、順調に軍人として出世の道を歩んでいた。

 そして昭和12年7月に起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件の時には支那駐屯軍歩兵第一連隊の連隊長として現場にいて、戦闘命令を下した人でもあった。この事件によって日中戦争は本格化した。

 この頃から牟田口廉也の名前は、激しい気性と強気の作戦指導の指揮官として知られるようになった。

 かつての日本軍は陸軍大学校の卒業生がほとんどであり超エリートだった。インパール作戦の指揮者たちもみな陸大の卒業生であり、先輩後輩のタテ社会で自由に意見は表明しにくい雰囲気があったという。

 さらにビルマ方面軍司令官川邊正三中将は、陸軍で枢要な地位についた東條英機とは陸大の同期生だった。お互い陸大卒業にあたっては、成績優秀者だけに授けられる恩賜の軍刀をもらっている間柄だった。さらに盧溝橋事件の際には牟田口第一連隊長の直属の上司という関係にあった。

 インパール作戦の水面下では、情実が絡みやすい環境にあったというのも事実だった。

 

 一方、連合軍の思惑はどのようなものだったのだろうか。

 1943年(昭和18)1月、アメリカ、イギリスを中心とする連合軍は北アフリカのモロッコカサブランカで合同参謀会議を開いている。アメリカは中国の蒋介石を支援するための補給路である援蒋ルートにこだわっていた。イギリスは大英帝国の威信にかけて何としても植民地を奪回したいと考えていた。両者の思惑はこの会議で一致し、連合軍のビルマ奪回作戦が決定された。

 この連合軍の動きを察知した日本軍は、ビルマにおける防衛体制の強化を迫られ、昭和18年3月27日ビルマ方面軍が首都ラングーンに新設された。

 

 さらに当時日本軍はインドへの侵攻で戦況を好転させたいという意向を持っていた。

 昭和18年2月、アメリカ軍はガダルカナル島を攻略して、太平洋方面で攻勢に転じていた。5月にはアッツ島、8月にはキスカ島を奪回し、11月以降には中部太平洋のマキン、タラワを占領した。こうして太平洋上でのアメリカ軍の反攻作戦は、日本の資源輸送をおびやかし、日本国内の工業生産力は低下していった。

 

 こういう戦局を打開したいという思惑が日本軍にあった。