1992年12月。
土曜の夜、息子の徹は塾からまだ帰ってきていない。娘の幸子は夕飯後は自室にこもっている。一階は夫婦二人だけである。
テレビでは野球中継が流れている。誠一郎はリビングルームのソファにすわってテレビを見ているが、時々妻の様子を伺っている。キッチンで洗い物をする妻の手が空くのをまっていた。
恵子は洗い物が一段落つくと、テーブルについて、手を休めることなく家計簿をつけ始めた。平日はスーパーの事務のパート勤務で疲れているので、土曜日にまとめてつけている。家計簿に記録し終わったレシートをグシャと握り、ごみ箱に捨てていく。電卓をたたく恵子の指先といっしょに見慣れた光景だ。
誠一郎はテレビから流れる野球中継を漫然と見ていた。そして思い切って口を開いた。
「会社でソーキタイショクの募集が始まったんだ」
恵子はテレビの音で聞こえにくかったようだ。
「なんていった?」
「早期退職だよ」
誠一郎は少し大きな声で繰り返した。
電卓をたたく恵子の指がとまり誠一郎の方を向く。
「会社で何かあった?」
「いや、別に何もないよ」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」
二人の間に気まずい空気が流れはじめた。恵子はふたたび電卓のキーを叩いては数字を記帳している。
「退職金に割増金がつくのでいい条件なんだ」
恵子はキッと誠一郎の顔をにらみつける。
「変なこと考えないでよ」
恵子は取り合わない。
恵子もパート勤めで世の中の景気が悪くなってきてるぐらいの情報は聞いている。自分と同じようにパートで働く女性たちの動機は、ほとんどいっしょだった。住宅ローンや教育費の足りない部分を少しでも補うためだ。家庭によって経済状況の逼迫度は微妙に違うが、みな必死だった。恵子は恵子なりにバブル崩壊後の戦線に参入していた。
だか誠一郎の勤め先は大手一流会社である。パートの面接の時にも、担当者に夫の会社をそれとなく伝えると、そんないい会社に勤めているのに働かないとダメですかと遠回しにきかれた。
住宅ローンの返済がこの数年きつくなってきているのだ。年二回のボーナス月にはローン返済額は二倍に設定していた。この無謀な返済計画がこの家の家計にどれだけ負担になっているか。電卓のキーを叩く恵子が一番知っている。
バッターがホームランを打った。「打ちました。打ちました」野球中継のアナウンサーが声を張り上げている。
ちょうどその時、徹が塾から帰ってきた。
「ただいま」
荷物を下ろした徹がどかどかとテーブルにつく。
「腹へった……今日は何?……ん? カレー?」
「まずカバンを自分の部屋に持っていってからでしょ!」
恵子がいつになく大きな声で注意するので、徹はびっくりしてテーブルを離れる。
「わかったよ……今日のお母さん、荒れてんな」と言って徹はカバンを持って二階に上がっていった。
恵子は立ち上がって、黙って徹の夕食の準備をする。
「風呂先に入るよ」
誠一郎は諦めて浴室に向かった。