Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

悲劇の白骨街道 ビルマ慕情(17)

 1944年(昭和19)1月インパール作戦が正式に発令された。第十五軍傘下の三個師団はそれぞれ準備に入った。

 アラカン山系の一番険しい北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動車道路の開設と物資の集積に懸命だった。自動車に頼れないところは牛を使って運ぶ予定だったので、5000頭の牛の訓練にも力を入れた。しかし、インパール作戦ではイラワジ河の支流であるチンドウィン河を渡河しなければならない。半数以上の牛はここで溺れ死んだという。

 各師団は、三週間分の食糧・弾薬を携行して、いっきにインパールを攻略するという計画だった。

 この物資の補給に関して計算上は無理だと意見を表明した人もいたが、左遷人事で現場から外され、そうなると周囲で当然口をつぐむ人も出てきたことは戦後わかってきた。

 一番激しい行軍が予想された第31師団の佐藤幸徳師団長は、作戦が頓挫し、途中で食糧・弾薬が尽きることを恐れていた。

 1921年(大正10)に陸大を卒業後、部隊勤務経験が長く、豪放磊落な性格で、上官にもずけずけものをいうタイプの軍人だったという。

 インパール作戦の後半事件を起こし、上官である牟田口廉也司令官にあわやというようなシーンも起こしかねないような怒りを向けるということにもなった。

 

 1944年(昭和19)3月8日、まずいちばん南の第33師団が敵の注意を惹きつけるためにチンドウィン河を渡って作戦を開始した。一週間後に第15、31師団がそれぞれのコースからチンドウィン河を渡った。

 第31師団は苦しい行軍を続けて、なんとか4月5日にインパールの北方の要衝コヒマに到達した。途中、敵と激しい戦闘を交えて、多数の死傷者を出しながらも、目標地点まで目標の日数でたどり着いた。

 しかし持っていた食糧はほとんど食べ尽くしていた。その上イギリス軍はコヒマ方面に兵力を増強し、反撃に転じた。制空権を握っていた連合軍は空から豊かな物資の補給が保障されていた。

 日本軍はインパール平原にまで到達しながら、連合軍の抵抗にあって身動きが取れない状態が続いていたという。この地域はまるでバケツをひっくり返したような土砂降りとか、ホースからふき出るようなような雨粒が降ると形容されるような独特の気候だった。この泥沼の中で、多くの兵士は栄養失調になり、次々に疫病におかされ、マラリアアメーバ赤痢デング熱にかかって倒れるものが続出した。

 第31師団の佐藤幸徳師団長は何度も補給を要求する電報を打つが、司令部からは補給は届かなかった。この何度かの司令部とのやり取りに佐藤幸徳師団長の怒りは爆発した。

 6月1日朝、佐藤師団長は独断命令を下達し、第31師団をコヒマから撤退させた。師団長が独断撤退する事態は、日本陸軍始まって以来のことだった。

 敗走する日本兵はより悲惨な状況に追い込まれ、白骨街道の悲劇はここから始まった。

 第31師団の撤退によって、第15、33の二つの師団も不利な戦いを強いられたことも事実だった。

 作戦中止命令が出されたが、3個師団の敗走が始まると、兵士たちは疲弊しきっていて、チンドウィン河にたどり着くまでに次々に倒れていった。インパールからビルマにかけての山々、谷、そして街道にはおびただしい日本兵の死体が横たわった。

 

 現在もまだビルマに眠る遺骨はあると言われている。