Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

学徒出陣 ビルマ慕情(18)

 誠一郎は戦争のパネル展を見ている途中で、講演会が始まる時間になってきたので隣室の会議室に入った。50人ほどがすでにパイプ椅子に座っていたので、誠一郎は一番後ろの端の席にすわった。はぼ席は満員状態。

 企画マネージャーの澤村深雪が、講演者の斉藤信夫を後方の入り口から正面の長テーブルに案内した。斉藤は穏やかな表情を作っていた。

 山崎と同じぐらいの年配の男性が2,3人いた。あとは夏休みに入っていたので学生をふくめた若い人たちと年配の女性たちがほとんどだった。

 

 深雪が講演参加者に簡単な略歴を紹介した。

 斉藤信夫は大学に籍を置いたまま休学し、当時のビルマの前線に参加した人だった。

 1937年(昭和12)以来、日中戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や戦局の悪化で戦死者数が増加したため、兵力不足が顕著になっていた。

 そのため兵役法などで旧制の大学・高等学校・専門学校などの学生は26歳まで徴兵が猶予されていたが、年を経るごとにその対象は狭くなってきた。

 第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18)、兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた。これがいわゆる学徒出陣と呼ばれるものである。

 1943年10月1日、当時の東條内閣は「在学徴集延期臨時特例」を出して、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴集延期措置を撤廃した。同年10月と11月に徴兵検査が実施され、丙種合格者までを12月に入隊させることになった。

 東京の明治神宮外苑競技場では同年10月21日に東條英機首相たちの出席のもと出陣学徒壮行会が行われ、続いて各地方都市でも開催された。

 学徒出陣によって入隊することになった学生の多くは高学歴者であるという理由で、陸軍では、幹部候補生として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足に当てられたという。

 

 講演は始まった。

「ただいま紹介にあずかった斉藤です」

 まず斉藤は深雪が紹介していない詳しい経歴を語り、インパール作戦での所蔵部隊を説明した。そしてインパール作戦の悲惨な状況を簡単に説明した。

 斉藤がいた部隊はほとんど死に絶え、イギリス軍と応戦したときには、自分のすぐそばにいた兵士に弾があたり即死するとい体験も生々しく語った。これに近い体験は何度かあったという。

 そして自分が戦死することなく無事に日本に帰ってこれたのは、暗い顔をして運がよかったからだといった。運といういう言葉でしか説明ができないと、言葉を一つ一つ丁寧に選びながら言った。

 誠一郎は、目立たないように下を向いて、運ということばに耐えて聞いていた。「運」という言葉は受け入れられない心境だった。

 斉藤の話はさらにつづく。

 そして学生時代から剣道で身体を鍛えていて、体力は人より少しあったと説明した。つまり運と体力のおかげだったという。

 最後に、これからは、中国との関係改善なくして、アジアの平和を作り出せないとしめくくった。