Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

バブル崩壊と母の死 ビルマ慕情(3)

 1992年秋。

 この年、日本経済は長い不況の時代の入り口に入っていた。

 1989年12月29日、日経平均株価が史上最高値38,915円をつけ、この前後の好況期をメディアはバブル景気という言葉で表現していた。日本社会全体が好況に沸いていた。

 ところが、1991年ごろからそのバブル景気が崩壊したと言われ、地価が下落し始めた。投資家や不動産のオーナーから企業経営者や会社員まで、広く国民の生活に影響を与えることになった。

 雇用情勢も著しく悪化し、中年層は早期退職、リストラの対象になり、新規大卒者の就職率が低下し、女子大生にいたってはさらに就職の門戸は狭くなり就職氷河期の波をもろに被った。

 

 大阪市内にある一部上場会社。20階建てのビルに入っている。道路側の外壁は全面ガラス張り。太陽光線が広いオフィスの隅々まで差し込んでいた。

 誠一郎は陽ざしを背に受けてデスクに向き合い仕事をしている。企画部第二営業課課長が誠一郎の社内での肩書だった。

 気分転換に椅子をくるりと回すと、全面ガラスの窓からは灰色のビルがぎっしりと立ち並ぶ街並みが映る。人も車も小さく見える。大阪城も遠く地平線あたりにかすかに見える。椅子を戻すと、部下たちが自分のデスクに向かって作業をしている。ここが企画部第二営業課の島である。

 夜は付き合いで週に何回かは遅く帰る生活。

 家庭では高校生の娘幸子と中学生の息子徹の二人の子どもの父親である。もっとも子どものことはすべて妻恵子にまかせっきりである。平日はほとんど子どもたちと顔をあわすことがない。子どもたちも父親の姿を求める歳でもなかった。クラブ活動や塾通い、友人との付き合いと自分たちの生活があり、そこで営まれる喜怒哀楽で成長していた。

 母絹江は二駅離れたところで一人で住んでいたが、昨年から体調をくずし入退院を繰り返した後、ガンで亡くなった。

 ちょうどそのころ誠一郎は社内でかかえていた案件で、終電近くで帰る日が続いていた。手術は立ち会ったが入院のことは恵子にまかせていた。お通夜から葬儀までの段取りもすべて妻がとりしきった。

 誠一郎は気づいていないかもしれないが、ほとんど涙らしい涙を流す余裕がなかった。それだけ精神が張り詰めていた。

 翌日からは会社に出た。

 会社員としての時間が流れ、母を亡くした実感を味わう間もなかった。

 ただ母を亡くしたことで、誠一郎は自分の存在の拠り所を失ったような気がする瞬間があった。兄弟姉妹も父もいなかったからだった。

 葬儀後もしばらく仕事に没頭したのは、余計なことを考えたくなかったからかもしれない。