土曜の午後、ポロシャツに軽いジャケットを羽織った誠一郎が、自宅のリビングルームで出かける支度をしている。名刺いれから新しくできたばかりの名刺を一枚抜き出して、財布に移し入れた。
地下鉄天満橋駅を降りて、誠一郎は歩いて10分ぐらいの距離にある国際交流女性センターに入って行った。ガランとしたロビーの右手には売店コーナーがあり、奥を見渡すと外部に迫り出すようにカーブを描いた壁があり、床から天井いっぱいにはめ込まれたガラス窓から贅沢な陽が差し込んでいた。
誠一郎はそれとなく人をさがしはじめた。見当たらないようだ。
奥の方にある受付カウンターにすすみ、電話中の若い女性スタッフが受話器をおろすのを待った。
電話を切った女性スタッフは誠一郎に気がつくと立ち上がり、
「はい、何か?」
と聞いてくれた。
「ここの職員の……澤村さんは今日は出てますか?」
誠一郎が不安気にたずねると
「澤村さん?……」
「そう。8月にここでいろいろやってたときにいた女性で……」
「ああ……澤村さんは先月でやめましたよ」
「やめた?」
「やめたというより、契約が切れたんですよ」
その女性スタッフは誠一郎を気の毒に思ったのか説明を加えた。
「澤村さんは8月の企画の展示や講演などの準備のために数ヶ月前からスタッフとしてかかわってくれていたんですけど、はじめから期限付きのスタッフとして臨時に採用された人なんです」
「臨時?……次の職場とかわかる?」
「いいえ……」
誠一郎は混乱している感情を整理したかった。
ここに来ればいつでも会えると安易に考えていたおのれの判断が甘かったのか。
その若い女性スタッフは事情を察して、
「澤村さんはアジアの女性史の研究を続けていける就職先を探していたんですが、なかなかないみたいで……今は女子大生の就職なんてかなりきびしい時代ですからね、大学院出てもないわなんて言って。それでしばらくアジアを旅してくると言ってたらしいです」
「アジアに?……具体的にはどこかな?」
「詳しくは聞いてません……フットワークがすごく軽い人だから、東南アジアが好きだって言ってたから東南アジアあたりじゃないですか」
誠一郎は女性スタッフに礼を言ってカウンターを離れた。
最初に澤村深雪に目をとめたロビーの壁際にあるベンチソファがそのままあった。誠一郎はそのソファに腰かけて煙草に火をつけた。
あんなににぎやかだった会場は静まりかえっていた。
アジアの女性史への情熱を語る深雪に出会った頃を思い出していた。