1930年代、祖父と祖母は九州の宮崎県大分県あたりの木賃宿に泊まりながら、行商をして商いをスタートさせた。二十代の若い夫婦が一緒に行動できたのは何かと好都合だったはず。
行動的な祖母が祖父の背中を押していきながら、定住場所を決めるまでは借り住まいで頑張ったんだろう。
父の記憶では、叔父の一人は愛媛県の今治市で生まれている。叔父自身も生まれた今治市に一度行ってみたいと語っていたから事実だ。
行商しながら動いていた祖母もいよいよ出産となった時、女手を必要としたので一旦知り合いがいる今治市に戻って出産したのだろう。個体として強い身体を持った女性だ。
戸籍ではこの叔父も国東半島で生まれていることになっていた。父親は国東半島に落ち着いた時に役所で手続きをしたのだろうと推測した。
1930年代、祖父のこの時期の懸案事項は、学齢期に達した父のために学校に通わせることだった。
それにはまず定住先を決めないといけないということで、選んだのが国東半島だった。
行商生活で土地勘はあったのだろうし、土地が豊かで、人々も優しかったということで決めたらしい。
祖父たちは小金は持っていたはずなので、最初は農家の離れを借りていたが、やがて町に近い一軒家を借りたらしい。「この家かな」と思える川のほとりの小さな家は私は現地で確認した。
農家は現金収入を当てにできるので、Korea半島からきた外来のよそ者にも貸してくれた。
この家から4人ぐらいの子が学校に通った。小学校の尋常科になるのか国民学校と呼ばれるものになるのか詳しく調べていないが、とにかく読み書き、算数、日本の歴史を学習した。
小さな家の一間に机が4つ向かい合う形で用意された。もちろん新品ではないが、りんご箱を机代わりにすることも普通だった時代に、教室と同じように机と椅子を祖父がどこかから購入してきたという。
いかに子が教育を受けることを大事にしたかである。二人は典型的な儒教社会で育った人間だった。
時代背景を考えれば、最終的にはお国ために行動できる日本国民を養成することが目標だろう。だから、祖父の子どもたちも当時の学制に組み込まれて、日本国民としての教育を受けた。
Korea半島出身者だからといってほったらかしにされたわけではない。
これ以外に何があった?
ここで強調したいのは、父の妹の一人も学校に入った。祖父の一族の女子で、皇民化教育の一環だったかも知れないけれど、近代的な教育を受けたのはこの叔母が最初である。
私が会った時には、叔父と叔母の3人はまだ記憶にある日本語を話そうと努力してくれたが、深い意思疎通ができたのは一番上の叔父だけだった。
遠くてちょっと辛い記憶を姪への手紙の中でも語ってくれたおかげで、「日本にいた時の暮らし」がイメージしやすくなったものである。
学校は被差別者というかマイノリティにとって、ストレートな被差別体験を初めて受ける場所である。
父親も叔父や叔母も口にしないだけでそういう体験は多少持っているはずである。
子どもからだけでなく、心ない言動を多少教師からも受けたらしい。
父親の通知表、卒業証書、皆勤賞などは祖母がKoreaに戻ってからも保管していて、ある時期に私が譲り受けたのだが、全て処分して今はない。
ただ、そこに記載された父の名前に関して少し記憶が残っている。
姓は日本語読みにしてそのままにしてあったが、下の名前は日本の男子の名前らしいシンプルなものに変わっていた時もあった。たとえば、○夫とか一郎とか。
本名は「お坊さんみたいだ」とからかわれたりしたらしいから、子どもには難しい漢字を使っていた。それもあったのかな。
Chinaの人もそうだと思うけれど、koreaの人も生まれた時の姓を変えるのはかなり抵抗がある。
とにかく姓を日本語読みにして苗字代わりにして、名前を変えるという生活をしばらく続けた。
戦中、姓の変更まで強いられたのは「創氏改名」を求められたからである。
創氏改名と在日Koreanが通称を使うことは別物である。