1920年代、二十代前半の若者だった祖父は一族の青年と妻子を残し故郷を出た。さらに「あと2、3人連れて出た」と語ったということなので、4、5人のグループ行動になったはず。
旅費については自分たちで用意したのだろう。
父がことばができない不自由を問題にすると、
「筆談で来た」
と祖父は説明したという。
祖父は山間部の故郷の面(村)で日本語の語学書を初めて購入した人と伝え聞いている。出稼ぎを意識したためか、単なる好奇心かは分からない。多分前者だろう。
祖父が初めて宗主国日本で働いた場所と労働の中身については、父もはっきりは聞いていないようだ。語るのが嫌だったかも知れない。
祖父は自尊心の高い人で、肉体労働ができる人でもなかった。
ただ、愛媛県今治市での肉体労働についただろうと、父なりに推測できるだけの情報はもらっていた。
ということは当時の愛媛県今治市を調べないとわからない。
父は今でいう土木建設作業だろうと推測していた。
この地でKorea半島からの労働者を使わないとこなせない労働需要があったということか。
そのために手配師が募集するために慶尚南道の山間部まで来た。
一世の男子の聞き取りでも、「建設関係の土木作業」を口にする人は多かった。
では、当時今治市で生じた土木建設労働需要は何だったのだろう。
ネットで調べていると、今治市で発行された『今治港80年のあゆみ』という地域資料が今治市立図書館にあることがわかったので、近所の公共図書館を通じて借りることができた。
公共図書館で蔵書の貸し借りができるシステムのおかげで、その土地に行かずとも読みたい地域資料を借りることができた。
もう数十年近く前の話しで、今はもっと便利なシステムがあるかも知れない。
この資料によると、今治港の築港工事が、明治から大正・昭和にかけてさかんに行われたことが書いてあった。瀬戸内海をのぞむ今治港が飛躍的に発展していった時期だった。
1910年(明治43年) 今治尾道間鉄道連絡船就航
1920年 (大正9年) 港湾修築第一期工事着手
1922年(大正11年) 今治港が四国唯一の開港場に指定される
1923年(大正12年) 第一期工事完成
引き続き第二期工事が向かう9ヵ年継続事業として着工される
1934年(昭和9年) 第二期工事完成
祖父は1925年(大正15年)生まれの父が生まれる前に、故郷を離れている。
私は今治港第二期工事に関係する土木建設作業現場で働いただろうと考えている。
そこでは祖父たちと同じような立場のKorea半島出身の男子が多くいたはずである。
祖父はそこでいろいろな情報を得ながら、しばらく慣れない肉体労働に耐えたのだろう。