自分のことは他人に任せられないので、自分で調べないといけない。たまたま歴史に興味があり、文献も探しやすいポジションにいた時期もあってコツコツ調べてきた。
日韓併合に起因する在日Koreanの一世については、おおよそ3つのグループに分かれると考えている。一世とは渡日の意思を持った世代と私は考えている。
① 1910年の日韓併合以降、故郷での生活ができないため日本に渡ってきた人たち。
土地調査事業が大きく関わっているが、それだけではなく、たとえば賭け事による借金苦から逃げるとか 、何らかの事情があって故郷におりづらくなったとかいろいろあったと思う。
② ①のグループの人たちの縁故を頼って動いた人たち。配偶者が多かった?
一族の誰かが日本で安定した暮らしをしているとわかれば、そこを頼ることは今でもよくあることだ。
③ 戦中末期あたりの人手不足の頃、本土での健康な日本男子は戦地に赴いていたので、炭鉱や戦地などの肉体労働をする人はほとんどいない。そのためにkorea半島で半ば強制的に集められた。これは事実だ。
家族はいないので戦後ほとんど帰ったと思われるが、そのまま単身で残った人もいた。
自分たちの意思ではなかったと言われそうだが、どこかで折り合いはつけたと思われる。もうほとんど亡くなっている。
私が関係する一世については①と②に属していて、日韓併合を起因したKoreaにルーツがある人たちはたいてい同じだと思う。
③に関係する子孫は、いないとは言わないけれど、かなり稀だと思う。
だから、日韓併合に起因する在日Koreanの子孫の歴史を考える際、「強制連行」なんて言葉を使うのは検討違いだ。
で、祖父と祖母の話に戻る。
祖父や祖母は、まさか日本に残った孫の一人が自分たちの足取りを調べるなんて、想像もしなかっただろう。
叔父の一人と手紙でやりとりをした時に「本を書こうと思ってるの?」ときかれたこともあったが、そこまでは考えてなかったが、明らかにしたいという気持ちはあった。
1930年代、一旦愛媛県の今治市に祖母を連れて立ち寄った祖父は、そのまま落ち着くことはせず、九州に渡り宮崎県大分県あたりを行商しながら生活を始めた。一緒に渡日した青年と配偶者とは別行動をとったのだが、祖母の意向が強く働いたと思われる。そういう女性だ。
とにかく、ものを売りながら木賃宿に泊まるという生活がしばらく続いた。
当時、九州あたりで行商をしながら木賃宿に泊まり歩くKorea半島出身者のことに触れている文章を読んだことがある。
何を売っていたのかが興味があるのだが、筆や墨だろうと思われる。
「どこで仕入れたのか」と父に聞いたことがあるが、「奈良あたりだろう」という返事だった。祖父は筆を持たせたら、屏風などにさらさらと漢文を書くことができる教養はあった。立ち寄る人の目の前で実演しながら売れば、ちょっと売れただろうと想像はできる。
百貨店の実演販売みたいなものだ。
祖母は祖父と別行動で、父の手を引きながら農家を一軒一軒回りながらものを売っていたと思われる。祖母は言葉がまだできない頃だったので、祖父が書いた紙を持っていたという。
父のすぐ下の弟が生まれると背中におぶっていたはず。それ以降戦前戦中、祖母の背中は次々に生まれてくる子をおぶっていただろうと想像する。
肉体労働を蔑む両班(ヤンバン)気質の祖父にはできないことでも、祖母はやれたんだろうと思う。