翌朝、誠一郎たちはマーウィンに案内されて、飛行機で世界三大仏教遺跡・バガン観光の玄関口であるニャウンウーへ向かった。
到着後、ナッ神信仰の聖地ポッパ山のふもとに聳えるタウンカラッを訪ねたり、パゴダや寺院群が多く残るオールド・バガンの仏教遺跡群を馬車に分乗して見学。その日はバガンのホテルで宿泊。
翌朝、マーウィンはニャウンウーのにぎやかな市場に案内してくれた。その後、一日だけの見学ではもったいないオールド・バガンの仏教遺跡群を再び見学することになった。夕食は、ミャンマー伝統の人形劇を鑑賞しながらミャンマー料理を堪能した。
次の日、飛行機でミャンマーの第二の都市マンダレーに向かった。
ビルマ戦線の最中、牟田口廉也司令官は、このマンダレーから車で1時間ほどのメイミョウという町に司令部を置いた。イギリスの植民地時代は、気候がいいということで別荘地として使われていた。
ミャンマーは国の全土でイギリスの影響が色濃く残されていたが、このメイミョウの街は特にイギリスを思わせる建築物が多かった。
マンダレーからザガインを経て、北部の主要都市であるミチーナへのびるただ一本の鉄道の途中にある要衝の駅がシュエポである。ここが物資の集積地となり、ここから西にあるチンドウィン河沿岸の拠点カレワまでの道が、前線部隊はもちろん補給部隊にとっても唯一の幹線道路となった。
ザガインの郊外に日本軍の兵士が「オッパイパゴダ」と名付けたカウンムードパゴダがある。女性のふくよかな乳房を思わせたからである。このオッパイパゴダの横を通り過ぎると一本道があり、ここから過酷な戦場へとつながっていった。この道を徒歩で行軍しながら、日本に残した母や妻、恋人、密かに心を寄せる女性への思いを断ち切っただろうと想像される。
誠一郎たちは、マンダレーの市内観光をして、郊外にある古都アマラプラのウーベイン橋、ミャンマー最大のマハーガンダーヨン寺院も見学した。さらに夕日を眺めるためにマンダレーヒルに登った。
旅の日程をほとんど終えて、ヤンゴンのホテルに戻ってきた誠一郎たちは昼食をすませてゆっくりしていた。昼から自由行動だったが、他の人たちは疲れているのでホテルでゆっくり過ごすことになった。
マーウィンは誠一郎に
「ヤジマサン マチヲ アルキマショウ」
と、提案してきた。
誠一郎は早足で歩くマーウィンの後ろを追いかけるようについていった。市場の間をくぐり抜け、路地を抜け、寺院の前を通り、お坊さんたちが一列に並んで歩くそばを通り、やがてマーウィンは誠一郎を誰もいない丘に導いた。はるか北側を見下ろすとマンダレーにのびる鉄道が見えた。
「タクサンノヒトカラ キキマシタ。ムカシ ココカラ ニホンノ ヘイタイガ マンダレーニ ムカウノヲ ミタ。オジイサン オバアサンガ コドモノトキ デス」
誠一郎ははるか遠いマンダレーを思いながら、しばらく眺めていた。
ふと、旅の間いつもポケットに忍ばせていた母の香水を、ここでまこうと思いついた。香水の瓶をマーウィンに見せると強くうなづいていた。誠一郎は母の香水の瓶の蓋を開けて、足元の地面にひたすようにまいた。そして手を合わせて、誠一郎は頭を垂れて祈った。
母は生きて帰ってくれることを切に願っていたこと、母と子が寄り添って生きてきたこと、息子として会ってみたかったことを祈りの中でつぶいやいていた。
込み上げてくるものがあった。長い祈りの途中で、合わせていた掌はいつの間にか顔を覆っていた。誠一郎は今まで抑えていた感情に身を任せて、子どものようにしゃくりあげて泣きはじめた。傍のマーウィンも手のひらを合わせて、涙をこらえて祈っていた。