Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

桜散るころ ビルマ慕情(7)

 1993年3月。

 誠一郎は早期退職した。上司から引き留められることはなかった。

 妻恵子には事後報告というかたちになってしまったが、次の職はすぐ見つかりそうだと言ってなぐさめた。恵子もすぐに再就職を考えるということで納得した。

 社内の健康診断では問題になったことはなく、四十八歳の誠一郎はまだ健康には自信があった。新しい環境に慣れていくという柔軟性もまだ持ち合わせていると思っていた。その上、大手企業に勤めていたと言う経歴があるから、次の職場はすぐ見つかると高を括っていた。

 

 退職した1ヶ月は、職安での失業手当の申請などいろいろな手続きで過ごした。わかっていたことだが、会社都合による退職なので失業手当はすぐおりることになった。家計には影響を及ぼさないので、誠一郎はしばらくはゆっくり過ごせると思った。

 

 職安から自宅に帰る際、桜並木があり桜が満開であることに気がついた。毎年毎朝同じ道を通っていたはずなのに、今まで気が付かなかったことが信じられない。思わず見とれて深呼吸した。身体に染み渡ってゆく空気まで、退職するまでとは違っているように感じられた。

 

 本格的な夏が始まる前、誠一郎は再就職戦線に本腰を入れて参入した。

 職安にいって自分の希望に見合った条件の職場を探してみるが、思ようには見つからないことに小さな衝撃を受けた。職安の職員からは「時期が悪い」ことを言われて、初っ端から長期戦になるだろうと覚悟を求められた。だが、誠一郎には前職の給与に見合った失業手当があるので、まだ恵まれていた。

 

 数ヶ月、たいてい日中は一人で家にいることが多く、たまに職安で手続きをとったり仕事を探す日々が続いた。やがて、誠一郎の生活に変化が訪れた。

 ほぼ寝に帰るだけのサラリーマン生活では、テレビは野球中継をたまに見るだけで、テレビで時間をつぶせる人間でもなかった。毎朝手元に届く新聞だけが、誠一郎にとってかろうじて社会とのつながりを維持していた。

 失業後、誠一郎はリビングルームで朝から新聞を隅々まで目を通す習慣ができた。それも今までのように経済欄や社会欄だけではない。文化欄や催しの紹介や広告も含めすべてである。

 

「行ってきます」

 徹が朝食を食べ終わるや否や、スポーツバッグを肩に家を出る。

「今日、遅くなるから」

 続いて幸子も簡単に朝食をすますと、学生バッグをもって玄関をでていく。

 妻もキッチンで片づけをしながら、自らもパートに出ていく支度にいそがしい。出かける前には、洗いあがった洗濯物を二階のベランダにもっていき干す。

 誠一郎の周りがバタバタしていて、それぞれが忙しそうだ。

 一人になったリビングルームでゆっくり新聞に目を通す。焦りがないといえば嘘になる。焦っていた。すがれるものがあればすがりたい心境に近づいていた。ただ弱音を吐けない。

夫婦の葛藤 ビルマ慕情(6)

 誠一郎が妻恵子に早期退職を考えている胸中を語った夜から、一週間がたった。夫婦は再度話し合いの時間をもった。

「定年前にMID Jajanをやめるなんて……人が聞いたら笑うわ。これから幸子や徹を大学まで行かせようと思ったらどれだけお金がかかるか……それにこの家のローンもあるし」

 恵子は家の購入のことに触れると、自分が強気になってローンを組んだだけに分が悪い。

「学資保険もあるし、すぐに再就職できるよ」

 誠一郎は恵子をなぐさめた。

「どうしてあなたが辞めなあかんの」

と言って、恵子は再び電卓をたたいている。

 結婚当初から几帳面に家計簿をつけていてきちんとした性格だった。今住んでいる家の購入にあたっても、かなりの金額を頭金にできたのも妻の日々の努力のおかげだった。誠一郎よりも恵子の方が家の購入を強く希望していたこともあるが、このぐらいは出せると提示した金額は誠一郎の想像を超えていた。

 パート勤務を始めたのもこのままでは足りなくなることを見越しての決断であった。結婚当初は自分がパート勤務をするなんて想像していなかったはずだ。

 派手なことは好まず、家のことは一切任せることができる頼もしい妻であった。誠一郎は感謝していた。

 しかし、社内で抱えているトラブルの責任を取らされるかもしれないことを、妻と共有するのは難しい。社内での競争や軋轢などで苦しんでいることなど恵子には想像がつかない世界だ。誠一郎も家には社内でのことを持ち込まないようにしていた。

 はた目には一部上場企業に勤めていて、親戚や恵子の両親から頼もしく思われ大事にされている誠一郎だった。そんな会社を定年前にやめるなんて、誰が見ても正気とは思えない。正気でないことを具体的に考えざるを得ないほど、誠一郎は社内で追い詰められていた。

 しかもふりかかってきた問題の責任を、人のせいにすることなんてできない性格の優しさと弱さを根っこのところでもつ人間だった。

 実は、誠一郎は早期退職を来年の春とすでに決めていたので、会社への意思表示も近々するつもりにしていた。しかし、恵子にははっきりと口に出すには時期尚早と判断した。

 

「君は優しい人間やな」

とかつて誠一郎を買ってくれていた上司から酒の場でしみじみ言われたことがある。

「ここぞと言うときに弱気になってしまうところがあるなあ。そんなんではMID Japanで生き残れんぞ」

 誠一郎はただ黙ってグラスを傾けながら上司の助言を聞いていた。その上司は数年前に栄転で東京本社に移ってしまった。当時は後ろ盾を失ったような寂しさを感じたものだった。

家庭内不和 ビルマ慕情(5)

 1992年12月。 

 土曜の夜、息子の徹は塾からまだ帰ってきていない。娘の幸子は夕飯後は自室にこもっている。一階は夫婦二人だけである。

 テレビでは野球中継が流れている。誠一郎はリビングルームのソファにすわってテレビを見ているが、時々妻の様子を伺っている。キッチンで洗い物をする妻の手が空くのをまっていた。

 恵子は洗い物が一段落つくと、テーブルについて、手を休めることなく家計簿をつけ始めた。平日はスーパーの事務のパート勤務で疲れているので、土曜日にまとめてつけている。家計簿に記録し終わったレシートをグシャと握り、ごみ箱に捨てていく。電卓をたたく恵子の指先といっしょに見慣れた光景だ。

 誠一郎はテレビから流れる野球中継を漫然と見ていた。そして思い切って口を開いた。

「会社でソーキタイショクの募集が始まったんだ」

 恵子はテレビの音で聞こえにくかったようだ。

「なんていった?」

「早期退職だよ」

 誠一郎は少し大きな声で繰り返した。

 電卓をたたく恵子の指がとまり誠一郎の方を向く。

「会社で何かあった?」

「いや、別に何もないよ」

「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」

 二人の間に気まずい空気が流れはじめた。恵子はふたたび電卓のキーを叩いては数字を記帳している。

「退職金に割増金がつくのでいい条件なんだ」

 恵子はキッと誠一郎の顔をにらみつける。

「変なこと考えないでよ」

 恵子は取り合わない。

 恵子もパート勤めで世の中の景気が悪くなってきてるぐらいの情報は聞いている。自分と同じようにパートで働く女性たちの動機は、ほとんどいっしょだった。住宅ローンや教育費の足りない部分を少しでも補うためだ。家庭によって経済状況の逼迫度は微妙に違うが、みな必死だった。恵子は恵子なりにバブル崩壊後の戦線に参入していた。

 だか誠一郎の勤め先は大手一流会社である。パートの面接の時にも、担当者に夫の会社をそれとなく伝えると、そんないい会社に勤めているのに働かないとダメですかと遠回しにきかれた。

 住宅ローンの返済がこの数年きつくなってきているのだ。年二回のボーナス月にはローン返済額は二倍に設定していた。この無謀な返済計画がこの家の家計にどれだけ負担になっているか。電卓のキーを叩く恵子が一番知っている。

 

 バッターがホームランを打った。「打ちました。打ちました」野球中継のアナウンサーが声を張り上げている。

 ちょうどその時、徹が塾から帰ってきた。

「ただいま」

 荷物を下ろした徹がどかどかとテーブルにつく。

「腹へった……今日は何?……ん? カレー?」

「まずカバンを自分の部屋に持っていってからでしょ!」

 恵子がいつになく大きな声で注意するので、徹はびっくりしてテーブルを離れる。

「わかったよ……今日のお母さん、荒れてんな」と言って徹はカバンを持って二階に上がっていった。

 恵子は立ち上がって、黙って徹の夕食の準備をする。

「風呂先に入るよ」

 誠一郎は諦めて浴室に向かった。

早期退職者募集 ビルマ慕情(4)

 誠一郎は同期入社組の中で、一番出世が遅れていると見られていた。

 彼らはバブル景気が始まると、早々と課長職、次長職を昇りつめていた。

 バブル景気。

 一般的には1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までに日本に起こった、資産価値の上昇と好景気およびそれにともなうさまざまな社会現象をさすことばである。

 当時新聞の経済欄でこのことばは踊っていた。

 誠一郎はこのバブル景気がはじけと言われ始めたころに課長昇進となった。

 ところが会社自体はその頃から水面化で業績が悪化し始めていた。バブル崩壊の波が静かに会社にも誠一郎にも近づいている。

 

「課長、部長からです」

 部下の女性が誠一郎に内線電話をとりつぐ。

 誠一郎が受話器を取ると、部長から会議室にくるようにいわれた。

 誠一郎は目の前の資料の山から目的のファイルを取り出して、近くの女性社員に声をかけておいて会議室に向かう。

 部長と次長との打ち合わせで1時間ぐらいたった。

 誠一郎が疲れた身体で会議室から出て席に戻ろうとすると、部下たちはちらっと視線を送るもののほとんど姿勢をくずさない。第二営業課のデスクの島には緊張した空気が流れていた。部下たち一人一人が誠一郎の胸中を推しはかっているかのようである。

 会議室に呼ばれたのは、現在のプロジェクトについての長期の見通しをきかれるためだった。資金回収が遅れている。バブル景気のころならうまくいったものがくずれてきていた。はっきりした言葉は避けていたが、最終的な結果次第では責任をとるように迫るものだった。

 自分の運の悪さを責めるか、運の悪い時代に遭遇したことを恨むか。誠一郎は納得できないものを抱えていた。

 誠一郎のような中間管理職のサラリーマンにとっては、きびしい時代にさしかかっていた。

 誠一郎のデスクの灰皿には、吸い殻が山のように積まれていた。

 

 会社の早期退職者の募集案内が掲示板に貼り出された。退職金が割り増しされるとある。対象年齢は勤続20年以上で年齢は45歳以上だった。誠一郎は対象年齢に達していた。先のことを何も考えなければ、退職金の割り増しは魅力的だった。今抱えている案件を放り出して飛びつきたいとも思った。どんなに楽になるだろうか。

 だが、10年前に郊外にちょっと無理をして購入した庭付き一戸建ての住宅ローンの返済、二人の子どものこれからの教育費のこと、最近妻恵子が「生活費が足りない」と言ってパート勤めを始めたことを考えると、とんでもないことだとその掲示板から離れる。

 前へ進むしかない。

 負け犬になるなと自分を鼓舞した。

バブル崩壊と母の死 ビルマ慕情(3)

 1992年秋。

 この年、日本経済は長い不況の時代の入り口に入っていた。

 1989年12月29日、日経平均株価が史上最高値38,915円をつけ、この前後の好況期をメディアはバブル景気という言葉で表現していた。日本社会全体が好況に沸いていた。

 ところが、1991年ごろからそのバブル景気が崩壊したと言われ、地価が下落し始めた。投資家や不動産のオーナーから企業経営者や会社員まで、広く国民の生活に影響を与えることになった。

 雇用情勢も著しく悪化し、中年層は早期退職、リストラの対象になり、新規大卒者の就職率が低下し、女子大生にいたってはさらに就職の門戸は狭くなり就職氷河期の波をもろに被った。

 

 大阪市内にある一部上場会社。20階建てのビルに入っている。道路側の外壁は全面ガラス張り。太陽光線が広いオフィスの隅々まで差し込んでいた。

 誠一郎は陽ざしを背に受けてデスクに向き合い仕事をしている。企画部第二営業課課長が誠一郎の社内での肩書だった。

 気分転換に椅子をくるりと回すと、全面ガラスの窓からは灰色のビルがぎっしりと立ち並ぶ街並みが映る。人も車も小さく見える。大阪城も遠く地平線あたりにかすかに見える。椅子を戻すと、部下たちが自分のデスクに向かって作業をしている。ここが企画部第二営業課の島である。

 夜は付き合いで週に何回かは遅く帰る生活。

 家庭では高校生の娘幸子と中学生の息子徹の二人の子どもの父親である。もっとも子どものことはすべて妻恵子にまかせっきりである。平日はほとんど子どもたちと顔をあわすことがない。子どもたちも父親の姿を求める歳でもなかった。クラブ活動や塾通い、友人との付き合いと自分たちの生活があり、そこで営まれる喜怒哀楽で成長していた。

 母絹江は二駅離れたところで一人で住んでいたが、昨年から体調をくずし入退院を繰り返した後、ガンで亡くなった。

 ちょうどそのころ誠一郎は社内でかかえていた案件で、終電近くで帰る日が続いていた。手術は立ち会ったが入院のことは恵子にまかせていた。お通夜から葬儀までの段取りもすべて妻がとりしきった。

 誠一郎は気づいていないかもしれないが、ほとんど涙らしい涙を流す余裕がなかった。それだけ精神が張り詰めていた。

 翌日からは会社に出た。

 会社員としての時間が流れ、母を亡くした実感を味わう間もなかった。

 ただ母を亡くしたことで、誠一郎は自分の存在の拠り所を失ったような気がする瞬間があった。兄弟姉妹も父もいなかったからだった。

 葬儀後もしばらく仕事に没頭したのは、余計なことを考えたくなかったからかもしれない。

臨時のスタッフ ビルマ慕情(2)

 土曜の午後、ポロシャツに軽いジャケットを羽織った誠一郎が、自宅のリビングルームで出かける支度をしている。名刺いれから新しくできたばかりの名刺を一枚抜き出して、財布に移し入れた。

 

 地下鉄天満橋駅を降りて、誠一郎は歩いて10分ぐらいの距離にある国際交流女性センターに入って行った。ガランとしたロビーの右手には売店コーナーがあり、奥を見渡すと外部に迫り出すようにカーブを描いた壁があり、床から天井いっぱいにはめ込まれたガラス窓から贅沢な陽が差し込んでいた。

 誠一郎はそれとなく人をさがしはじめた。見当たらないようだ。

 奥の方にある受付カウンターにすすみ、電話中の若い女性スタッフが受話器をおろすのを待った。

 電話を切った女性スタッフは誠一郎に気がつくと立ち上がり、

「はい、何か?」

と聞いてくれた。

「ここの職員の……澤村さんは今日は出てますか?」

誠一郎が不安気にたずねると

「澤村さん?……」

「そう。8月にここでいろいろやってたときにいた女性で……」

「ああ……澤村さんは先月でやめましたよ」

「やめた?」

「やめたというより、契約が切れたんですよ」

 その女性スタッフは誠一郎を気の毒に思ったのか説明を加えた。

「澤村さんは8月の企画の展示や講演などの準備のために数ヶ月前からスタッフとしてかかわってくれていたんですけど、はじめから期限付きのスタッフとして臨時に採用された人なんです」

「臨時?……次の職場とかわかる?」

「いいえ……」

 誠一郎は混乱している感情を整理したかった。

 ここに来ればいつでも会えると安易に考えていたおのれの判断が甘かったのか。

 その若い女性スタッフは事情を察して、

「澤村さんはアジアの女性史の研究を続けていける就職先を探していたんですが、なかなかないみたいで……今は女子大生の就職なんてかなりきびしい時代ですからね、大学院出てもないわなんて言って。それでしばらくアジアを旅してくると言ってたらしいです」

「アジアに?……具体的にはどこかな?」

「詳しくは聞いてません……フットワークがすごく軽い人だから、東南アジアが好きだって言ってたから東南アジアあたりじゃないですか」

 誠一郎は女性スタッフに礼を言ってカウンターを離れた。

 最初に澤村深雪に目をとめたロビーの壁際にあるベンチソファがそのままあった。誠一郎はそのソファに腰かけて煙草に火をつけた。

 あんなににぎやかだった会場は静まりかえっていた。

 アジアの女性史への情熱を語る深雪に出会った頃を思い出していた。

再就職 ビルマ慕情(1)

 平日の昼下がり、リビングルームの電話の音が鳴る。

「はい、矢島です」

「こちら東和化成ですが、矢島誠一郎さんですか?」

 先日再就職のために面接を受けた会社の若い女性の声だった。電話連絡は初めてだった。いつも履歴書を返送されるだけだったので、一瞬いい返事かもしれないと思った。

「はい、そうです」

 誠一郎の声は上ずっていた。

「今、部長の田崎と代わります」

 受話器の向こうの相手が女性から先日面接を担当した人物に代わった。聞き覚えのある低い声だった。社内で検討した結果、採用を決めたという朗報だった。

「ありがとうございます」

 誠一郎は、面接の時から今までにない相性の良さを感じた人物に電話で何度も礼をいった。肩の荷が降りる気分で、これで再就職戦線から離脱できたと思った。

 春に会社を退職して、すでに朝夕すっかり秋らしくなっていた。

 

 その日の夜、妻恵子に再就職が決まったことを伝えた。

「よかった」

と身体から搾り出すように一言つぶやいて、

「給料のことは気にしないで。私もパートでやっていくし、子どものためにもう少し頑張ろ」

といって、台所で洗い物を始めた。

 家庭の中の歯車がまたゆっくり回り始めたようだ。

 

 東大阪にある東和化成株式会社の自社ビルの2階にある事務室。

 この職場で誠一郎が働き始めてまだ1か月もたっていない。

 以前の会社に比べれば規模ははるかに小さいが、誠一郎は今までやってきたことを評価した上での採用となったのがうれしかった。再就職戦線で自尊心を失いかけていた誠一郎にとって、給料は下がってもそれほど気にならない。恵子も大丈夫だと言ってくれている。

 ひっきりなしに電話がなっている。

「仕事、慣れてきました?」

 同僚の一人がコーヒーカップを片手に誠一郎のデスクを覗き込むようにして声をかける。新しい同僚も誠一郎と歳は同じぐらい。

「ええ、そうですね」

「MID Japanにいたんですよね……すごいじゃないですか……みんなうわさしてますよ」

と誠一郎の前の会社を口にする。

 誠一郎は書類作成の手をやすめない。

 

 社内の時計が12時をすぎた。同僚たちと近くの食堂で昼食をとり、社に戻る前に煙草をすいたいのでと言って、ひとりで公園のベンチに腰かけた。事務室での喫煙はできるだけ止めるようにしていた。

 誠一郎は煙草をくゆらせながら考え事をするのが好きだ。

 目の前には鳩がむらがっている。

 子どもを遊ばせている母親が何人かいる。急に飛び立つ鳩にびっくりして泣き出しそうなったわが子を抱き寄せていた。

 いつしか忙しそうに動き回る若い女性の後ろ姿を思い出していた。いろいろ聞いてもらいたいことがある。新しい職場に慣れて落ち着いたら、早く会いに行こうと思った。

 誠一郎はベンチから立ち上がり社に戻り始めた。