学校という閉ざされた空間にいい思い出を持つ人間ではない。だからほんの少しだけ振り返ってみる。
阪神間の市街地で育った。すでに小学校、中学校は少子化の影響で統廃合されて存在していない。小学校はもともと分校として戦後に開校された学校なので、その役目を終えたということになる。これを知った時は時代の波を感じたものだった。
高校も統廃合が近いという噂を聞いたことがあるけれど、どうだろうか。
高校は公立なのでいわゆる兵庫方式で入学先が決まる。今もそうだと思う。学区ごとに公立高校が割り振られていて、内申書と科目を超えた思考力テストの結果が公立高校入学レベルにあると判断されたらほぼ入学できる。
他府県の場合ならすべり留めの私学を受験するのが普通だと思うが、兵庫方式ならその必要がほとんどなかった。だから高校受験のための受験勉強をした記憶はない。
中には自分の学区以外の高校に行きたいと希望する人もいたが、全受験生の上位数%に入れば可能だった。たとえ不合格でも自分の学区の高校にまわされるから安心。冒険する人にも道が開かれていた。
ということで市内の公立校の学力は平均化されていたように思う。このあたりが兵庫方式のねらいかな。
で、入学した高校は大正時代に創立された旧制中学から続く一応進学校だった。私はちょうど入学する頃に引っ越しをしたのでこの高校に割り振られた。
が、そのころ新設の公立高校ができて中学の同級生たちはその新設高校に割り振られて、実績も伝統もない新設高校への入学を嫌がる人が多かった。
が、現在はその新設高校の方が評価されている。
結局同じ中学からは5、6人ぐらいが入学したのだが、私以外は学区外を希望した「冒険組」ということになる。
入学した高校は伝統ある進学校と言えども、1970年代半ば当時は荒れていたという記憶がある。いわゆる番長風の男子グループが学級内と生徒会を仕切っていた。髪型はリーゼントとかいうらしいが、前髪がぐーんとせり出した感じ。
他の生徒に何かすることはないのだが恐れられていたし、主に気に入らない教師側に圧力を加えていた。
気弱な教師などはものすごい嫌がらせを受けていて、授業が成立しない。嫌われたら徹底的に嫌われた。教壇をひっくり返されたり、廊下で周りを囲まれ口喧嘩。教師は手を出しにくいので相当我慢していたと思う。しかも腕力は生徒側の方がはるかに上だ。
火災報知器が火事でもないのにしょっちゅう鳴るし、トイレからは煙草の煙が漏れてくるとか、何かと落ち着かなかった。
おそらく民間会社を辞めて教師になろうと赴任してきた気弱そうな若い男性教師が、1週間たっていなかったと思う、臨時朝礼で退職の挨拶をしていた。やわな性格では務まらない。
このあたりの受け止め方の程度は人によって違うかもしれないが、教師がいじめられるのをみるのは辛かった。
ある教師が授業が成立しない現状と学力的にも振るわない実績を「君たちの先輩が泣く」とつぶやいていた。この高校は団塊の世代以上が通っていた頃、特に戦前は、阪神間でも有数の進学校だったらしく、同じ阪神間にある灘高校が滑り止めだった時代があったときく。
ある有名な作家が灘高校出身と知った時、あの時代は公立校の方が人気があったよねなんて思ったものだった。
大学に入った時に周りを見て、自分はストレスの多い高校から来たことを発見した。というのは火災報知器が全く鳴らないからだった。
が、まもなくこの大学も別の方面で大荒れだと分かった。
定期テストを潰してでも要求を通そうと実力行使する学生側と身体を張ってそれを防ごうとする教員側の攻防戦が凄まじくて……。この話はまた今度。
ではでは